翌日。
朝食時も、食堂は微妙な空気のままだった。 栄太郎と文江は、昨日と同じく別々のテーブルに座っている。 文江は山下や小山たちと楽しそうに話をしているのだが、栄太郎はと言えば、無言でうつむき、力なく料理を口に運んでいた。 そんな栄太郎を気遣って直希が声をかけるが、栄太郎は上の空で「ああ……そうだな……」と適当に相槌を打つだけだった。 そしてその空気は生田と西村にも伝染し、二人共うなだれたように食事を摂っていた。 食堂は、女たち三人の笑い声が支配し、男三人がその声に怯えているといった、異様な空気に満ちていた。 菜乃花は今日も、早くから学校に行っていた。 つぐみとあおいはそんな空気の中、生田や西村に声をかけ、フォローをしていた。ラジオ体操が終わると、直希は栄太郎と一緒に出掛けていった。
出かける時、つぐみに「昼もじいちゃんと外で食べてくるから。悪いけど、任せていいかな」そう言ってきた。 つぐみは了承し、今日一日直希に休暇を出したのだった。* * *
直希と栄太郎が帰ってきたのは、入居者たちの入浴が終わった16時頃だった。
「ただいまー」
直希が両手に大きな荷物を持ち、玄関に入ってきた。
「おかえり直希。あれ? 栄太郎おじさんは?」
「ああ、うん、ちょっとな……悪いんだけどつぐみ、ばあちゃんを呼んできてくれないかな」
「文江おばさん? さっきお風呂からあがって、お部屋に戻ったばかりなんだけど……」
「頼むよ。それからこれ……ばあちゃんに、この服に着替えてきてほしいんだ。理由は俺が後で説明するって、言っておいてくれないかな。そして用意が出来たらその後で、みんなも呼んできてほしいんだ」
「入居者さんたち?」
「うん。それと勿論、つぐみとあおいちゃんもね」
直希が何をしようとして
深夜。 目が覚めたあおいが時計を見ると、3時を少しまわっていた。 布団に入ったのは23時過ぎだったが、中々寝付けなかった。何度も何度も寝返りをうち、その度に時計を見ていた。 最後に時計を見た時は1時をまわっていたので、まだ2時間ほどしか眠れていない。 あおいの脳裏には、あおい荘のスタッフや入居者、一人一人の顔が浮かんでは消えていた。「……」 起き上がりカーテンを開けると、雨が降っていた。夜のニュースでは、台風が近付いているとのことだった。 昼過ぎ、栄太郎と文江が記念写真を撮っていた時にはあんなに晴れていたのに、それからしばらくして、空一面を分厚い雲が支配していったのだった。 ――まるで今のあおい荘の様だ。 そう思い、あおいは小さくため息をついた。 このあおい荘に来てから、毎日が本当に楽しい。家にいた時に感じられなかった、自らの足で歩き、自らの意思で生きている、そんな実感が確かにあった。 入居者もスタッフも、自分のことを本当に可愛がってくれる。 自分のことを温かく見守ってくれて、自分がここにいることを肯定してくれる。 自分を認めてくれる。 ここに来てから、本当に色んなことがあった。 自分の人生は家が全て決める。そんな現実から解放され、自分の意思で、ヘルパーになることを志した。 初めて会った時、入居者6人の顔と名前を覚えるだけでも大変だった。しかし毎日触れ合っていく中で、各々の個性を知り、それぞれの人生を知る出来事がたくさんあった。そしてその度に、距離が近付いていくことに喜びを感じた。 たくさんの出来事、たくさんの事件。その度に悩み、どうすれば解決出来るのか、自分に何が出来るのかを考えた。そして自分の思考の先にはいつも、直希の存在があった。 直希がいれば大丈夫。つぐみの口癖だった。いつも直希に厳しく当たるつぐみだが、彼女は誰よりも直希のことを信頼している。そして事実、これまでの騒動は直希がいたからこそ解決出来
翌日。 朝食時も、食堂は微妙な空気のままだった。 栄太郎と文江は、昨日と同じく別々のテーブルに座っている。 文江は山下や小山たちと楽しそうに話をしているのだが、栄太郎はと言えば、無言でうつむき、力なく料理を口に運んでいた。 そんな栄太郎を気遣って直希が声をかけるが、栄太郎は上の空で「ああ……そうだな……」と適当に相槌を打つだけだった。 そしてその空気は生田と西村にも伝染し、二人共うなだれたように食事を摂っていた。 食堂は、女たち三人の笑い声が支配し、男三人がその声に怯えているといった、異様な空気に満ちていた。 菜乃花は今日も、早くから学校に行っていた。 つぐみとあおいはそんな空気の中、生田や西村に声をかけ、フォローをしていた。 ラジオ体操が終わると、直希は栄太郎と一緒に出掛けていった。 出かける時、つぐみに「昼もじいちゃんと外で食べてくるから。悪いけど、任せていいかな」そう言ってきた。 つぐみは了承し、今日一日直希に休暇を出したのだった。 * * * 直希と栄太郎が帰ってきたのは、入居者たちの入浴が終わった16時頃だった。「ただいまー」 直希が両手に大きな荷物を持ち、玄関に入ってきた。「おかえり直希。あれ? 栄太郎おじさんは?」「ああ、うん、ちょっとな……悪いんだけどつぐみ、ばあちゃんを呼んできてくれないかな」「文江おばさん? さっきお風呂からあがって、お部屋に戻ったばかりなんだけど……」「頼むよ。それからこれ……ばあちゃんに、この服に着替えてきてほしいんだ。理由は俺が後で説明するって、言っておいてくれないかな。そして用意が出来たらその後で、みんなも呼んできてほしいんだ」「入居者さんたち?」「うん。それと勿論、つぐみとあおいちゃんもね」 直希が何をしようとして
「はあっ……」 あおいの追求がようやく終わり、つぐみが大きなため息をついた。「大体、今日文江おばさんの部屋に泊まるのは、こんな話をする為じゃないでしょ。栄太郎おじさんとの仲直りの為に、私たちに何か出来ないか、それを聞きにきたんじゃない」「そうでしたそうでした。お泊まりが楽しいので、すっかり忘れてましたです」「全く……」「うふふふっ」「……文江おばさん?」「ごめんなさいね。私たちのせいなのに、他人事みたいに感じちゃって。つぐみちゃん、あおいちゃん。心配しなくても大丈夫よ。だってこれぐらいの喧嘩、ナオちゃんは知らないだろうけど、実はよくやってたのよ」「そうなんですか?」「ええ。でも……ほら、昔一度だけ、大喧嘩した時があったんだけど、つぐみちゃんは覚えてるかしら」「……ええ。この街を二つに割った戦争ですよね」「うふふふっ、つぐみちゃんは本当、大袈裟ね」「いえいえ、大袈裟じゃないですって。あの時は本当に、街の空気が変になってたんですから」「そんなにすごかったんですか」「そうよ。なんたって、あの生田さんが乗り込んできて、頼むから振り上げた拳を下ろしてくれって、栄太郎おじさんと文江おばさんに頭を下げたぐらいなんだから」「……文江さん、それはちょっと凄すぎますです」「それでも二人共引かなかったの。相手が謝るまで、絶対許さないって」「それでその、直希さんが泣いて、二人を諫めてくれましたですね」「ええ、そうなんだけどね……でもあの時ナオちゃん、私たちにこう言ったの。『僕の家族は二人だけなんだ。二人がもし別れるって言うなら、僕はこの街から出て行く。そして誰も知らないどこかで、父さん母さんのところに行く』って」「ふ、文江おばさん、それ本当なんですか。私、初めて聞き
その頃文江の部屋には、あおいとつぐみが来ていた。「ごめんなさいね。あおいちゃんやつぐみちゃんにまで、迷惑かけちゃって」「いえいえ、とんでもないです。文江さんのことで迷惑だなんて、一度も思ったことありませんです」「と言うか文江おばさん、大丈夫なんですか」「うふふふっ。心配かけてごめんね、つぐみちゃん」「いえ、その……私はいいんです。今までだって、栄太郎おじさんとの喧嘩、何回も見てきましたし」「文江さん文江さん、そんなにいっぱい、栄太郎さんと喧嘩してましたですか」「そうねえ。まあ50年も一緒にいてるんだし、それなりにね」「いえいえ文江おばさん。普通の夫婦は、そこまで喧嘩してないと思いますよ。そうなる前に、離婚してると思います」「離婚ねえ……あの人と一緒にいて、不思議とそれだけは考えたこと、なかったのよね」「そうなんですか?」「どんなことがあっても、最後は私のところに戻ってくる。それが分かってたからかしら」「文江さん、本当に栄太郎さんのこと、信頼してますですね」「信頼……はしてないわね。どっちかって言ったら、馬鹿息子を見てるって感じかしら」「……文江おばさん。それ、かなり辛辣ですよ」「だってあの人、本当にそうなんだから。今の年になっても私、まだ子育てが終わってない気分だもの。ナオちゃんの方が、よっぽど自立してるでしょ」「それはそうかも、ですけど……でも、50年連れ添った夫と孫を比較してる時点で、栄太郎おじさんの株が大暴落してるんですけど」「うふふふっ。ねえ、それより教えてほしいことがあるの。こうやって、二人が私の部屋に泊まってくれることなんて、またあるかどうかも分からないし」「何をですか?」「二人はナオちゃんのこと、どう思ってるのかしら」「ええっ? ちょ、ちょっと文江おばさん、なんでそ
「お前、ガキの頃よく言ってたよな。自分が親を殺したんだって」「……」「お前はガキの頃から、わしの家に来るのが好きだった。若いやつらがよく来てたから、一緒に遊んでくれるのが嬉しかったんだろう。うちに来ればいつも、新藤さんのお孫さんですか、かわいい坊ちゃんですね、そう言われて悪い気はしなかったはずだ。 息子は……直人は、本当にわしの息子なのかと思うぐらい、クソ真面目なやつだった。お前への教育も厳しかった。だからお前は、口うるさい親のいる家より、甘やかしてくれるわしの家の方が好きだった」「……」「それであの日だ。夏休みに入ってすぐのことだった。わしの家に泊まりに来る前日になって、直人の工場でトラブルが起こった。そのせいで、直人たちがしばらく身動き取れなくなった。 わしの家に泊まる気になっていたお前は、大泣きしたそうだな。父さん母さんの嘘つき、嫌だ、絶対明日、じいちゃんばあちゃんの家に行くんだって聞かなかった。まあ、小学生になったばかりのガキだったんだ、仕方ないと言えば仕方ない。 そんなお前に根負けした直人からの連絡で、次の日わしはお前を迎えに行った。お前ときたら、そりゃもう嬉しそうだった。何日か遅れて来ることになった直人たちの顔も見ずに、喜んでわしの車に乗った」「そしてその日の夜、家が火事になって……」「ああ。連絡を受けてわしが行った時には、家は火に包まれていた」「……」「お前が駄々をこねて、直人たちを置いてわしの家に来たのは事実だ。だがな、そのことと家が火事になったことは、何の関係もない。ましてあの時のお前は、学校に入ったばかりのガキだったんだ。あの時のことを悔やんでしまうのは分かる。でもな、お前がいようがいまいが、あの日家が火事になるのは、避けられない運命だったんだ」「そう……かな……」「こんな言い方は直人たちに悪いと思うが、でもわしは、お前だけでも
「じいちゃん、いつまで落ち込んでるんだよ」「あ、ああ……すまんな、直希」 直希の部屋に泊まることになった栄太郎は、直希と二人、テーブルを囲んでビールを飲んでいた。「わしは……どうしたらいいんだろうな」「いやいや、俺に聞かれても困るよ。と言うか、どうするかは決まってるだろ。明日もう一度、ばあちゃんに謝って」「謝ってもなぁ……一晩ぐらいじゃ許してくれそうにない顔だったろ」「流石、夫婦歴50年ならではの意見だよな。ばあちゃんの怒りのゲージ、じいちゃんには見えてるんだ」「……あんなに怒ったばあさん、あれ以来だな」「街をまるごと巻き込んだ、伝説の大喧嘩」「はああっ……」 大きくため息をつくと、栄太郎はテーブルに顔を埋めた。「まあでも、なんだかんだで50年連れ添った二人なんだ。確かに今は熱くなってるけど、大丈夫だって」「でもな、あれだけ外面を気にするばあさんが……人前では完璧に猫をかぶってるばあさんが、このあおい荘であれだけぶち切れたんだぞ」「じいちゃんが踏んだ地雷の数だけ、ばあちゃんの仮面がはがれていったからね」「直希お前……ちょっと楽しんでるだろ」「うん、実は。ちょっとだけね」「こいつ」「ははっ。と言うか、久しぶりに元気なばあちゃんを見れて、嬉しかったかな。何だかんだでばあちゃん、俺と住むようになってから自分を抑えてたし」「……」「俺がじいちゃんばあちゃんの家に転がり込んで、二人の生活を変えてしまった。本当ならじいちゃんだって、もっと好き勝手にしたかったと思う……女遊びとかギャンブルとか」「おいおい、間違ってもばあさんの前でそんなこと、言わんでくれよ」「言わないよ